日本では、ほとんどの東南アジアの国々と同様に、賭博には何世紀にもわたる長い歴史がある。賭博の歴史は極めて興味深く、古い付き合いになる。仏教は今日でも大半の人々によって信仰されており、仏陀は賭博に反対の立場だったが、賭博はそれでも日本で行われた。
しかし、いつでもそういうわけではなかった。最古の賭博の形式は天武天皇が「双六」という、バックギャモンに非常に似ているゲームで遊んで過ごしいた紀元685年に遡る。彼の後継者がこれを禁止したものの、人々を抑えることはできなかった。日本の人々は平安時代(紀元794~1185年)まで賭博を続けたが、そのほかにも、鶏闘や競馬、闘蟋といったものがあり、ほとんどの賭けられるものは何でもやった。しかし、賭博の人気が出てきて、プロの賭博師すなわち「ばくち打ち」*が進出し始め、朝廷が介入し、国全体で賭博行為を禁止した。江戸時代(紀元1603~1867年)には幕府は、支配層の武士たちに領地を失う恐れがあるとして賭博は推奨されなかった。支配層の武士たちはこれをほとんど無視したが、平民は武士。
しかし、賭博は水面下で続けられ、幕府は厳しく取り締まった。江戸の初期、幕府はなくならない賭博に気がつき、賭博を「軽い」賭博と「重い」賭博とに分類し、規制しようとした。 富くじなどの 軽い賭博は違法とし、重い賭博は違法として法律で罰せられた。しかし、それでも人々を止めることはできなかった。チョボイチ、ビンころがし、オオメコメ、シシタ、ショソシロク、キツネ、ヨイドなどのサイコロゲームに加えて、新しいゲームが登場し始めた。 16世紀には、かるたやざんまいなどのカードゲーム(札)が盛んになった。
日本の鎖国政策の撤廃で、混合の文化が世界中からゲームを持ち込んだ。1920年代には、パチンコの登場により日本の賭博産業は一変した。パチンコは瞬く間に日本で行われる賭博ゲームの大部分を占めるようになり、不思議なことに違法とされなかった。これは、パチンコが直接お金を吸い上げるのではなく、代わりに報償として色付きの玉を渡し、それが現金に交換されるからである。ほかの種類の賭博はほとんどがまだ違法である。William Norman Thompson(ウィリアム・ノーマン・トムプソン)は、‘Gambling in America’ (「米国の賭博」)の著書の中で、日本は米国のおよそ半分の人口であるが、賭博 収益は米国とほぼ同じであると述べている。
ポータルサイトは、かつてないほど、さらなる賭博の機会を人々に供給する。毎年の賭博収益からインターネットは日本をカジノのホットスポットになる可能性が高いとみている。政府からの公式な承認はないが、人々は賭博は違法という状況が少なくとも数か所では解除されるとまだ望みをつないでいる。そうすれば彼らはまだ賭博行為ができるから。